Kentaro Kuribayashi's blog

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野中郁次郎・他『失敗の本質』

毎月、その月に読んだ本をリストアップしてまとめるという作業を行ってはいるものの、それらの本ひとつひとつについて書くということはしておらず、読んだはしから忘れてしまうのはよくないので、短くてもいいからなにかしら書き残していくようにしようと思う。というわけで、今回は『失敗の本質』。

失敗の本質

失敗の本質

先般、ようやくKindle版が出ていたので買って読んだ。十数年前に読んだきりの再読。当時は、政治学専攻の学生として、その分野では普通に読まれているこの本を周囲に倣って読んだのが、今回、いくつかの組織を実際に見聞したあとで読んでみて、あらためて面白さがわかったと思う。

戦史に基づく個々の戦闘のケース分析について第1章で、日米の組織論的比較について第2章および第3章で詳細に検討されるのだが、ここではそれらについて全般的に述べるのではなく、最近の自分の関心に引きつけて感想を書く。

米軍の演繹的戦略に対して、日本軍の場当たり的な戦略性のなさについて以下のように書かれていることが興味深い。

日本軍は、初めにグランド・デザインや原理があったというよりは、現実から出発し状況ごとにときには場当たり的に対応し、それらの結果を積み上げていくという思考方法が得意であった。このような思考方法は、客観的事実の尊重とその高位の結果のフィードバックと一般化が頻繁に行われるかぎりにおいて、とりわけ不確実な状況下において、きわめて有効なはずであった。しかしながら、すでに指摘したような参謀本部作戰部における情報軽視や兵站軽視の傾向を見るにつけても、日本軍の平均的スタッフは科学的方法とは無縁の、独特の主観的なインクリメンタリズム(積み上げ方式)に基づく戦略策定をやってきたといわざるをえない。

日本軍は確かに、広く長い視野に基づいた戦略には不得手であっただろう。しかし、その「インクリメンタリズム」自体には、いくつかの条件が整いさえすれば、よいところはあったと語られる。それらの前提条件を上記から摘出すると、

  • 客観的事実の尊重
  • 結果のフィードバックと一般化
  • 情報や兵站への配慮

が挙げられる。問題は「インクリメンタリズム」にあるのではなく、前提条件のともなわないそれが、単に「場当たり」に堕してしまったことにある。ここは、本書の現代における可能性を引き出すために是非とも押えておくべきポイントである。

本書の元本は、1984年に刊行されている。著者のひとりでもある野中郁次郎氏は、2年後の1986年に竹内弘高氏と共著で、1995年のスクラムに多大なインスピレーションを与えることになる論文"The New New Development Game"をHarvard Buisiness Reviewに寄稿する。ちなみに、「インクリメンタリズム」は、スクラムの第一義的な特徴を示す「経験主義」に基づく漸進的改善を示す用語であり、「インクリメント」といえば、スプリントにおける成果物を示す、これもまたスクラムの用語である。

その論文は、当時、圧倒的な強さを誇った日本企業、なかでもHondaやCanonの新製品開発プロセスを称揚する。バブル前夜、1979年にJapan as Number Oneなどといわれた記憶も新しい頃の、日本が最後に輝いた時代である。その後、上記の「前提条件」は組織的学習プロセスを定式化したSECIモデルに発展していく。

このように野中氏は、本書で示した日米の相違における戦略の違いよりもむしろ、組織が客観的な事実に基づいて学習することについての関心を深め、自身の議論を深化させていくという道筋をたどる。どういうことか。

米国的な「演繹的」な発想は、確かに日本の組織にはあまり向かないのかもしれないというのは、本書を読むまでもなく実感するところではあるが、そうした日米比較というのをこの本から読み込んでも、実はあまり意味がない。

本書における米国海兵隊についての記述にも見られる通り、彼らの革新性というのがどこからきたかといえば、「演繹的」という言葉から想像されるような通りいっぺんの論理主義ではなく、「創造的破壊」による「自己革新」にあるのである。そしてそれは、思考様式の違いに関わらず、組織というものの第一におくべき前提である。

客観的な事実を無視し、そこからのフィードバックによる自己革新を怠り、戦力の逐次投入をくりかえしてきた組織がどうなったか。それを日本軍の歴史が教えてくれているというわけだ。単に日米を比較し、彼我の差にあきれたり、単に「日本的組織」を論難して終わるのではなく、そうした「学習」「革新」の重要性を認識し、理解・実践することが、この本からいま一番得られることだろう。


余談だが、先日映画「風立ちぬ」を見た折り、気になった箇所を引用。

零戦の優秀性は誰しもが認めるところである。戦後に至っても戦闘機としての大きな技術革新として評価されている。ところがその零戦にしても、技術開発陣のヒト資源の余裕のなさも手伝ってその後は場当たり的的な改良に終始したため、艦隊決戦という時代送れになりつつあった戦略発想を覆すものではなく、その枠内にとどまるものでしかなかった。攻撃能力を限度ぎりぎりまで強化した名機は、ベテラン搭乗員の練度の高い操縦によって初めて威力を発揮した。米軍は、防禦に強い、操縦の楽なヘルキャットを大量生産し、大量の新人搭乗員を航空手兵という戦略のヒト資源として活用した。日本軍の零戦は、それが傑作であることによって、かえって戦略的重要性をそいでしまった。日本軍は、突出した技術革新を戦略の発想と体系の革新にむすびつけるという明確な視点を書いていたといえるのである。

技術者として、「風立ちぬ」における堀越二郎(あくまでもモデルなので、実際にどうなのかは伝記などを参照する必要はあるが)の生き様に共感を覚えないではないのだが、零戦に関してのこのような評言についても、よく念頭においておきたいと思う。