Kentaro Kuribayashi's blog

Software Engineering, Management, Books, and Daily Journal.

2016年4月22日

たとえば「映画を観るのが好き」という時、僕のようないまやオールドスタイルの人間は、その言明によって年に少なくとも100本とかそのぐらいは観ているんだろうなあと想像するのだが、実際にはそういうことではなくて、自分の中では相対的に映画を観ることが好きであるということをいっているに過ぎない、すなわち、極端にいえば年間10本も観ていなくてもその言明が主観的に成り立ち得るということである場合がある。

自分が何が好きであるかなんてなんだっていいのだから、そのこと自体は特に責められるべきことでもないし、むしろ物量にこだわるスタイルが、ある一時期に特有のものであったに過ぎないのを普遍的な感覚であると思いなす、それはそれで独善的なことであり得るだろう。ただまあ、独善的かどうかでいえば、どちらも独善的であることには変わりない。独善的であってもいいじゃんといえるかどうかは別の問題だが。

自分の外にある基準との比較や、歴史的な位置づけの認識抜きの主観的価値判断の表明というのが、いわゆるサブカルのひとたちは苦手だと思うのだが、自分ももちろんそういう面があって、そういうのってまあ、窮屈だしよくないよなあと思う。ただ、趣味的なものについてはなんだっていいけれども、自己評価というのはやっぱりそういう自己を超えたところにある何か、すなわち外部の基準と歴史との距離によって測られる方がよいと思う。

また、あるジャンルについてはそのような比較が可能であったとしても、別のジャンルにについてはまるで独善的な判断をしてしまうということはよくあることだろうと思う。意識しないとひとは内容に簡単に引きずられて、同じ形式のことなのに、全然違った判断基準を用いてしまう。まあそれはそれでいいともいえるにはいえるが、一貫性がないことを積極的に擁護するのは難しいだろうので、内容に左右されずに一貫した判断基準を持ちたいものだ。