Kentaro Kuribayashi's blog

Software Engineering, Management, Books, and Daily Journal.

[Web2.0] コンピュータは、非力過ぎて使えない!

現在のパソコンの性能は一般人にとってはもうこれ以上は必要ないほど強力になっている、という意見を目にするたびに、不思議な思いを感じてきた。パソコンが、かつてのそれとは比較にならないほど高性能になったのは確かなことなんだろうけど、だからといってこれ以上は必要ないなどと思ったことなど一度たりとてなく、むしろまだまだ遅過ぎて苛々させられることのほうが多いからだ。

正直、現在のPCの性能は有り余りすぎている感がある。アポロ11号に積まれていたCPUはファミコン以下の性能だったらしいが、それでも月へ行って帰ってくるという大仕事を果たすのには十分な性能だったらしい。現在、人間がやらなければならない仕事の中で、これほど「CPUの性能対実績」の比が尋常じゃない仕事があるのだろうか。そんなものはもうほとんど無いだろう。現在のCPUには、これ以上の性能は必要無いと考えている。
今の自分が使っているPCも、自分の要求(Flash制作・CGI制作・音楽制作・画像制作・動画制作・印刷物制作・その他もろもろ)を満たすのには十分すぎる性能だ。しかし、このマシンはもうすでに時代遅れだと言われる。きっと自分のマシン以上の性能…それこそすさまじい性能を持った(自分のマシンでさえすさまじい性能だと思うのに)マシンがたくさん存在するということなのであろう。そんなマシンを保有している人たちは、そのマシンに何をやらせているのだろうか。本当にそこまで性能が必要なのだろうか。

確かに、引用文に挙げられているような目的を達成する上で、現在のパソコンは十分な性能を持っているのだろう。しかし、大昔のことならいざ知らず、現在においてはパソコンとはなにかを作り出すための道具でなければならないわけでは当然なく、制作行為と、テレビ番組を録画しつつリアルタイムエンコーディングするような行為との、どちらがパソコンの使用目的にそっているかなんて愚論だし、もっといえば、自分の金で買ったものについて「そのマシンに何をやらせているのだろうか。本当にそこまで性能が必要なのだろうか」などと非難めいたことをいわれる筋合いなどない、といいたくもなる。
僕は職業的にパソコンを扱う者でもないし、趣味の領域においてもパソコンの用途は Web 巡回、チャット、音楽を聴くこと、たまにちょっとしたスクリプトを書くこと程度に限られており、引用文の著者から見ると、その僕がいまのパソコンが遅いなどというなんて、まったく理解のできないことかもしれない。いま僕が使っているパソコンは 3 年前に購入した、CPU が Intel Pentium 4 2.80GHz のハイパースレッディングがどうのこうのというやつ、メモリは 1GB といった構成のマシンで、それは新しくはないものの貧弱きわまりないというほどでもないと思うのだけど、それでも普段使っていて遅いと思うことが多い。
たとえばフォルダの中身をみようとおもってフォルダのアイコンをダブルクリックする。僕はフォルダの中身をみたいとはっきり意図をもって行動しているわけだから、ダブルクリックした瞬間に目の前に中身を展開してほしいという期待を持っている。しかし、そうはならず、前述の僕のパソコンで数分の一秒、処理が重い時は描画が完全に終了するまで数秒待たされることもある。これが現在一番新しいパソコンだと、遅延なく表示されるのだろうか。そんなことはないだろう。これは「遅い」ということではないのだろうか。日常生活においてはまぁ耐えられなくはない遅延かもしれないが、遅延は遅延だ。技術的な理想としては一瞬で表示されるべきものが、パソコンの処理能力が貧弱なせいで、現状ではしかたなく遅延を甘受せざるを得ないというだけではないのか。
話をもう少し広げてみる。以下はコンピュータに対する素人の浅はかな考えに基づく暴論だろうけど、まぁそう思っちゃったものはしかたないってんで、メモしてみる次第。
上記した通り、普通のひとが使うパソコンについてすら僕はまだまだ非力だと考えるわけだが、そうすると当然、コンピュータを用いて仕事をする方々にとっては、もっともっとコンピュータの能力は高まって欲しいという欲求があるのではないと推察する。
Google はあの強力な無比な検索を実現する上で、処理能力を高めるために何万台ものコンピュータによる並列処理を行っていると聞く。それが具体的にどういうものなのか、素人には知る由もないのだけど、そこで素朴な疑問が思い浮かぶのだ。「もし、いま何万台も使って行っているのと同じパフォーマンスを、そのへんの家電店で購入できるパソコンで得られる世界になったとしたら……」と。そうなった時、現在 Google が保有している強大なコンピュータパワーを得ることのできる技術はまだ有意味であり得るのだろうか。あるいは、すべての計算を一瞬で行えるコンピュータができたとして、A と B のアルゴリズムのどちらが効率がいいかなどという議論は有意味であり得るのだろうか。そういう世界が訪れたら、現在のコンピュータを取り巻く状況はどう回想されるだろう。
「21 世紀の初頭、コンピュータの処理能力がいまとは比較にならないほど貧弱だった頃、その貧弱なコンピュータを何万台も並列するなんて途方もなく馬鹿げた努力によってしても、いまのコンピュータ一台にも満たない処理能力しか得られなかった。そんな貧弱な技術であったがゆえに、大きな処理能力を得ようとすると、一握りの勢力にしか運用できないほど複雑なものになってしまい、そのため、それらの技術をものにし得た企業は世界中の富を独占できたのだった。いま振り返って見ると、それらの技術はコンピュータがあまりにも貧弱であるという制限をどうにか回避しようというバッドノウハウの積み重ねに過ぎず、かつてから比べるとはるかに強大で技術的にこれ以上はあり得ない理想的な処理能力が実現したいま、それらは本質的には無用の努力だ。21 世紀初頭とは、現在ではコンピュータの発達によりなんの意味もなくなったバッドノウハウをよりたくさん保有した人間が他に対して優勢になるという不毛な時代だった」云々。
……これはまぁ無知に基づく妄想だとしても、話を戻すと、いまのパソコンが一般人には使いこなせないほど高性能だとは僕には到底思えないし、それはなにも僕の性格が極端にせっかちだからというわけでもなく、全てのユーザにとって同じように非力なのだと思う。いまのパソコンで十分、あるいは高性能過ぎるだなんて、単に自分の願望すら認識し得ていないというだけに過ぎない。コンピュータは、非力過ぎて使えない!