佐々木中『踊れわれわれの夜を、そして世界に朝を迎えよ』
- 作者: 佐々木中
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2013/08/08
- メディア: 単行本
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「アナレクタ」シリーズの終了を画する佐々木中さんの新刊。今回は、講演や対談の収録が主で、安定した構成になっている。とはいえその熱量は健在、というか、ますます意気盛んといった感じで、読んでいて思わず煽られてしまう、憑かれたかのような語りぶりがやっぱり面白い。
僕などは、ローティの『偶然・アイロニー・連帯』に同化している身としては、わりとそれは自分の考えの中だけのことに留めておいて、世の中に対するには機会主義の是々非々で事にあたることを旨としているわけだけれども、もちろんいろいろな政治的(というと矮小化される感じがするので、社会のといいたいところだが、それはともかくとしてそうした)課題について意見がないわけではない。
何が人々の政治的琴線に触れるのかは様々で、昨今は震災やその後の原発問題によって行動を起こしている人々が多いように思うわけだけれども、なんにせよ社会の問題に対して敏感になり、物事を考えたり事を成したりするのはとてもよいことだと思う。第1章の主題となる、風営法による規制問題は、僕の政治的琴線に触れる問題だ。
「ドアだけ占めときゃバレないさ」という日本語ラップを代表するパンチラインがありますね。これは今まで、ひとつの抵抗のかたちだった。当然いろんな選択肢があっていいと思います。しかし、ひとつの抵抗の形式に拘泥している場合では、もはやない。堂々と法律上の、つまり権利上の要求をして、法改正を迫るべきです。注意しましょう。その抵抗の仕方を選択するときに、「美的判断」で選り好みするというのは間違っています。美的判断を政治的判断に持ち込んではいけない。
と述べられる時、僕はまさにローティ的な意味において深くうなずく。確かに現行の選挙は、僕自身の美的判断にそってみても時代遅れであるといわざるを得ないし、ましてやデモについてはいうまでもない。しかし、事が法の問題であるからには、そうした個人的な美的判断はさておき、結果を出すために、まさに「是々非々」でできるだけの活動を行うべきだというのが僕の考えだ。
と思ったところで、著者はもう一度ひねってみせる。
でも、僕はここでもう一回話を捻りたい。あえて美的判断の言葉を使いたいのです。「デモとか署名は醜くてダサいから俺はやらない。俺は俺のかっこいいやり方でやるんだ」と言っている人は、彼らの美的判断の言葉を使うと「ダサい」んでうすよ。決定的にダサいわけ。なぜか。
簡単です。彼らの「ダサい」「かっこいい」という美的判断は、既成の美、既成のかっこよさ、既成の「枠」、既成の「おしゃれ」に縋っているにすぎないんですね。
(中略)
クラブという場所はアートの場所であり、逆にそういう「既成のかっこよさ」を「ダサい」ものにしてしまう「何か」を新たにつくりだす、そういう力を持った場所です。そこで法の問題が出てきた時に、それを美的判断にする替えてものを言いたいのならば、古い美的判断によって今の政治的判断を抑圧するのはおかしい。真の意味で「新しい創造」が行われる集団的プロセスにおいて、政治的「にも」正当な新たな「かっこよさ」というものをつくりだすことは可能でしょう。新しい美を擁護し正当化する「正義」をつくりだし、またその新たな「正義」をも包摂するような「美」を創造する。それはどうのようにして可能か?この可能性を諦める必要は全くないし、まさに今、こういう問いを立てていかなくてはなりません。
この場面、けっこうハッとした。とはいえ、その新たな「かっこよさ」の具体的なイメージは全然自分では描けてはいないのだけれども。ローティ的な、公的/私的な峻別といくつかの前提からなるリベラリズムに対して、僕は疑いを持ってはいないけれども、そうした「かっこよさ」を求める試み自体はあってよいし、あるべきだろう。機会主義的に判断するからといって、全てを現状の選択肢のみから採る必要はない。新たな選択肢自体を生み出すこともできるのだから。
その他、翻訳をめぐる議論、写真の時間芸術としての側面をめぐる議論、フランシス・ベーコンについての話などいろいろ感じいるところはあったのだけれども、感想を書くのも疲れてきたので、これでおしまい。