2015年9月2日
昨晩グリシンを飲み忘れたせいか、今朝はなかなか起きられず、メディテーションをする時間を取れなかった。よくない。
昼食はヒレカツ丼。食べに行く途中、身体のラインが浮き彫りになるようなスカートをはいている女性の、パンツがバチッと透けているのがスタスタと闊歩しているのを見て、潔さを感じる。
夕食後、読みさしの『西洋の欲望 仏教の希望』の続きを読み始めたが、なんというか、全然頭に入らない。扱われている話題に興味がないということだろう。アメリカにおける現行の仏教的考え方の実例に触れる目的で読んでいるので、だからといって読まずにおくわけにもいかず、なんとかがんばって目を通す。結局、最後まで全然心が惹かれることなく終わってしまった。
いまのところ、ゴータマ・ブッダの話には興味があるのだけど、その後の「仏教」としての話にはほとんど興味を覚えることができないし、ましてや現代の社会問題と関連させて語られると、それはそれで別の方法で解決するほうがよいんでは?という感じ。
ただ、興味が持てないのは、その対象がつまらないからということではもちろんなくて、いまはまだ自分が未熟だからよくわからないということだろう。仏教のことに限らず、なんでもそうだ。たとえば、興味を持てるほどの教養がないせいだから、ということもおおいにあり得るし、単に適切なタイミングではないということもあり得るだろう。いずれにせよ、自分が興味を持てないだけのことを、対象のよしあしに短絡しないようにしたい。
そんなことを思うのは、かつて興味をまったく持てなかったことに、ひょんなことからのめり込むようになり、そのことが端的に有用だったり、ひいては人生を左右するようになったことがたくさんあるからだ。たとえばプログラミングだってそのひとつ。それなりの数の人々がそれなりの年月にわたって取り組んでいることは、結果として自分が興味を持つかはわからないけれども、いま現在の狭量によってそれらを貶めるのはもったいないだろうと思う。