2016年5月8日
身の回りに置くものにかなり気を遣う方だと思う。とはいってもものをあまり買わないので、気を遣うべき対象があまりないのだが。一番気になるのはなんといっても本で、その量からいっても最も目立つものだし、一番好きなものでもあるし。あるいはうつわなどは、本よりももっと繊細かつ厳格に気を遣っているものだろう。逆に、ほとんどの家電のデザインが好きでないので(少なくとも自分の目に入る範囲では)、家電はできるだけ買わない。
身の回りにおいていいものとダメなものとをどう決めているかというと、次の順番で決まる。まず単純に、自分にとって良いと思えるもの。これは特に説明の余地がない。次に、自分の中である必然性があるもの。単体で見ると美的・知的に特にいいところがなくても、なんらかの文脈においてあってもいいというものはある。たとえばビジネス書は、そのほとんどが「良いもの」ではないが、ビジネスの歴史を学習している以上、ないと困るという本がある。そういうもの。それ以外は身の回りに置くことはできない。
などと、身の回りものには拘泥するのに、そうでないもの、すなわち、自分を直接に彩るもの、具体的には衣服であるとか、自分の見た目であるとかにはほぼ無関心なのはどういうことなのだろうかと思う。衣服など、ユニクロだけで十分。しかし、この10年ほどで評価が高まったそのデザイン性によっていいというわけじゃなくて、特にベーシックなものはいつでも買えるし、多分、今後ユニクロがある限り買えるだろう、そのことがいい。
身の回りのものに厳格なのに、自分の見た目にはなぜ無関心であるかと考えたのだが、そもそも自分の見た目に重きを置く必要がないからだということだろう。子供の頃から自分は不細工だと自覚して生きてきた。若い頃はそのことにコンプレックスもあったが、歳をとってくるとコンプレックスを持つことすらなく、単に無関心になる。改善のできるものなら関心の持ちようもあるが、改善の余地がないものに拘泥するほど、大人は暇ではない。
なぜそのような人間になってしまったかをふりかえると、小学4年生の頃、クラスの一番かわいい女の子が突然こういってきたのを思い出した。「栗林君は、性格はいいから好きでだけど見た目がねえ」と。それで、なるほど自分は(性格だって別にいいとは思わないけど)見た目があまり好ましくないのか、と思い、その頃から一貫して、その自認とともに生きて生きたのであった。先述の通り、若い頃はそれが転じてコンプレックスにもなったが、いつの間にかなくなってしまった。
人間の認知能力には限界があるし、そもそも僕はそんなにキャパシティの広い人間ではないので、早々に無駄な努力をしなくて済んだ、あるいは、認知能力を別の面、すなわち、本をたくさん読んで知的能力を高めたり、良いものを見て美的な感覚を養ったりすることに集中してこれたのは良いことであったようにも思える。人生において何がどう転ぶかはわからないが、いま振り返ってみるとそのような良さもまた、人生においてはあり得る。