Kentaro Kuribayashi's blog

Software Engineering, Management, Books, and Daily Journal.

2015年9月18日

朝のメディテーションは、今日もイスにあぐらをかいて。10分ほど。

最近、仕事で気を遣っている、張っていることが多いなあと思うのだけど、仕事の内容をやや変えたからなのか、自分の意識が変わったからなのか。緊張している、という感じがする。別に悪い意味ではない。緊張感は大事。ただまあ、気を張ろうがゆるゆるだろうがやるべきことがやれていればよいので、いずれにせよもっと成果志向になる必要があると思う。

毎日なにごとかをやっていたら、文字通りの意味における成果というのは基本的にはなにかしら出るわけだけど、必要なのはそういうことだけではなくて、数値目標を持っている人ならその達成を成果というのだろうし、そうでないひとであっても、数値でないにせよなにかしらの期待とか自覚とかがあって、それを超えるものを成果というのだろう。

昼食を食べていたら、店のひとがネットについて会話していた。「Twitterってまだあるんだっけ?」「ありますよ。私、書きまくってますよ。鍵かけてますけど」「それ、なんで書いてるの?」「友達には読んでもらいたいんですよね」など。

帰宅して、夕食を作る。手抜きして、丼。たくさん山芋をすってご飯にかけ、その上から豚肉と野菜の炒めものをのっけただけのもの。しかし、美味しいのでよい。

知的トレーニングの技術〔完全独習版〕 (ちくま学芸文庫)』の続きを読む。この本のオリジナルの頃(1979年〜82年)って、『知的生活の方法 (講談社現代新書)』(1976年)などもベストセラーになったりしていて、そういうのが流行っていたのかなあと思う。ニューアカ間近という時代。いまだって「教養」とか「リベラルアーツ」などがビジネス書の装いであれこれ出ているが、あんまり方法論的ではないように思える。

原稿的な文章を書くという意味で「知的生産」をするという機会はたいしてないのだけど、まあ、自分の人生や、あるいは仕事に多少なりとも役立てばいいなとは思うのであった。というのはちょっとごまかしで、実際は、「知的生活」を謳歌できるような人生を送りたいなとは思っているのだけど。読みたい本は山ほどある。でも、仕事をしていなければ興味も広がらないだろうから、それだけじゃだめなんだろうなあ。

知覚が無意識に処理されてしまうことは生産性を高めることにもつながるけれども、別の観点から見ると社会的なデメリットもあり得る。たびたびあげる例だと、僕は自分の容姿に対してそのような無意識の処理を行っているから特になんとも思わないのだけど、もうちょっとちゃんとしろよ、ということもあり得るだろうというようなこと。

かといってあらゆることに「気づき」続けることはできないので、ある程度の範囲に絞る必要が出てくるわけで、それは人それぞれの興味関心とか、あるいは能力とかによるのだろうけど、そういうのをできるだけ広く取っていきたいなあと思うのであった。しかし、無意識にスルーしている分には主観的にはなにも問題ないので、広く取ることがすなわちよいことがどうかはわからない。

安保法案の件でデモのひとたちががんばっている。参政権というのは、当たり前だけど投票することだけではないので、デモもそうだし、ロビイングであるとか、選挙事務所に行ってみるとか、ふだんから政治家と付き合うとか、オンブズマンをするとか、なんだってやれることはやる方がいい。デモだけをことさら特権視するのは悪しき形式主義だと思うが、デモ自体はそれがなんであってもいいことだと思っている。

ただまあ、政治でもなんでも、結果として理想に向けてある期限内(短期的であれ長期的であれ)に何かしらの実効性がないと意味がない(主観的な満足を得られるということはあるけど)のであるから、設定した期限内に効果のない行為は、きちんと総括されなければいけないのも、それがデモであってもなんであっても当然のことだろう。期限の設定がどうであるかで取り得る行為は変わるわけで、そういう意味ではもっとフラットにいろんな可能性を考える必要がある。

そういう意味では、あんまり融通が効かないひとが多いんだろうな、という感じはする。