2016年5月31日
たとえば『反応しない練習』のような自己啓発風な仏教紹介について、いいこと書かれてるが、未来を考えるなとかあれこれ言われても、そんなんじゃ(たとえば)仕事にならんだろうという感想があり得る。その感想に同意する。いろいろな感情とそれに対する反応があってこその社会生活だからだ。「公的」な領域でそのように生きるのは大変なことだ。
ここで「公的」とはローティの公私の分別のことだが、「トロツキー」的理想に燃える公的な生を充実させつつ、同時にかつそれとはまったく無関係に「野生の蘭」を愛でることは可能だろう。するとすぐに、純粋な私的領域などなくそれへの政治性=公的性の干渉があるのだといわれるが、この私の絶対性に対して、公的なものが割り込む余地はない。
同じように、生き物がただ生まれて死んでいくこと、宇宙のただいまあることも絶対的であり、その絶対性によって私とそれらとが繋がっていく。公的な領域における「闘争」とは無関係に、絶対的なことが存在する。そうした二重性をそのままに生きることが、ブッダ-ローティ的な生き方ではなかろうか。