Kentaro Kuribayashi's blog

Software Engineering, Management, Books, and Daily Journal.

2020年1月3日

起きて、日記を書いたりFacebookに年始の挨拶を書いたりなど。その後、North Villageへでかけ、「精神看護 2020年 1月号 座談会 ロビンソン・クルーソーは無人島で誰に最初に出会うのか 統合失調症から自閉症へ 特集 患者さんと医療者の意向が異なる時のコミュニケーション技法LEAP」を読む。先日目を通した座談会も再読したのだが、あらためて得るところがいろいろあった。類似的他者という概念は面白い。いわく、自閉症の人々も、そうした他者ならば社会的関係を取り結ぶことがあり得ると。そういうことは、自分の観測範囲においてもあるような気もしている。人間の基底としての自閉症的なあり方としてドゥルーズを読むこともまた、理論的な可能性のあることだと思える。その他、Listen-Empathy-Acknowledge-Partner=LEAPという実践についての解説も面白い。さらに、吉田健一『旅の時間 (講談社文芸文庫)』の続きを読む。

スーパーで食材とワインを買って帰宅。ラ・スピネッタのシャルドネ。旨い。食事と合わせて飲むはずが、Kを待ちながら仕事始めの書き物をしたり、写真について昨日から考えていたことをまとめてたりしているうちに、くいくい飲んでしまう。

広角で高精細に撮られた風景写真をうっとりと眺めながら写真によってしかなし得ないこのような細部の写り込みをどのように扱えばよいのだろうかと考えながらたとえば絵画のような形式にはあり得ないいつかたまたま見いだされるかもしれない細部に時間が畳み込まれるように凝縮されているさまを見ているのだ。そのような写真は写真家が意図するかどうかに関わらず否応なく記録的価値をはらんでしまいそのことはいまここでそれを観ているわたくしに対してもっとあとで観るならばより大きな印象を与えるかもしれないという未来への無限後退を強いることもまたありえアートとしての現在的な価値を毀損しかねない。

録音された自分の声を聴く者が一度は感じる「自分はこんな声をしていない」という驚きは録音機の持つ音響的現実と自意識との乖離から発生するのだが写真にもまた光学的現実と自意識との懸隔がありたとえばセルフィーを撮るものは何度も撮り直すことでその懸隔に対して折り合いをつけようと試みる。マイブリッジやマレーの写真が示した光学的現実を自意識に対する身体性としての視覚的無意識ととらえ自足的な自意識を内破する契機と評価するロザリンド・クラウスのようにあるいはもっと奔放なロラン・バルトのようにプンクトゥムを見出してまわることで写ってしまう現実から可能性を引き出すこと。

片手で持ったコンパクトカメラで撮りまくったスナップショットであっても三脚を使って入念に構図を作って丁寧に撮られた一枚であっても撮影環境がどうあれよくわからないものが必ず写り込んでしまい記録的価値を孕んでしまう写真の制約を未来の価値を現在に畳み込む装置としてとらえるとどうだろうか。しかしそうした記録的価値はアートといかなる関係を持つのかと自問するといくつかの考えが思い浮かんできてたとえばアートであるかどうかはどうでもいいという投げやりなのもあればそこに何を見出すかという撮影者と鑑賞者の無意識のぶつかりあいに可能性を見出すという穏当な回答が出てきもする。あるいは絵画に倣って全面的に画像に手を入れ書き換えてしまう少なくとも書き換えを完遂したのだという意思を持つことを試みるようなピクトリアリズム的な信念を表明することもできるだろうし写ってしまう現実を隅から隅まで構成しきってしまうモダニズムや杉本博司的超絶技巧を極めることもできる。

そのいずれにしたって写真が過去という時間をパッキングするものであるという通念に反して否応なく写ってしまうイメージがいつか見いだされるかもしれないしされないかもしれない潜在性の充実としての未来をこそいまここに畳み込む装置であるとみなすことに写真という形式の可能性を見出したい思う。そんなことをあれこれと考えながら都市のコンポジションを写真によって読んでいくことやその行為があるいはいつか誰かにとっての視覚的無意識なりプンクトゥムとなって未来からの刺激を感得することにつながるかもしれないことへ賭ける跳躍としていまはただある日の一枚をそっと差し出しておけばよい。

そんなことをしていたらエアコンの風で喉が傷んできてヤバい。といってる間にKが帰ってきて食材を持ってきたので、料理。ブリを焼いたもの、カツオの藁焼き、豚汁で夕食。その後、『視覚的無意識』を読む。