Kentaro Kuribayashi's blog

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元ちとせ特集をめぐって

"SWITCH" 2002 年 6 月号の元ちとせ特集を読みました。

特集それ自体は、元ちとせへのインタビューをメインに、その他、彼女のバックボーンとなった奄美諸島島唄をコンパクトに紹介していて、なかなかよくまとまっていると思いました。この特集を機会に、島外のひとが島唄を聴くようになれば、同じ島に住むものとして喜ばしい限りであると思います。

元ちとせがいまなにを考えているのか、どのようにしてここまできたのか、ということについて多少の興味はあったので、本特集は大変ためになりましたし、楽しく読みました。とはいえ、このような特集を読んでいてしばしば疑問に思うことがあるのです。ここでは、特集の内容についてではなく、形式や背景についてちょっと書いてみたいと思います。

「疑問に思うこと」というのは、例えばこんな表現について。

ここでは誰もが彼女のことを知っている。

"SWITCH" 2002 年 6 月号 p.30「島へと還る唄」(川口美保さんによる記事)冒頭 より

いうまでもないことなのですが、そんなことはありえません。なぜそのように大袈裟なことを書いてしまうのでしょうか?その数行後に「民謡を歌う若者はそれほど多くない」という記述があるので、完全に現実離れした認識を記者が持っているというわけではなさそうですが。それでは、次のような表現はどうか。

島でなければ、海に囲まれていなければ、どんなに遠くても歩いていけば別のどこかに辿り着くことができる。(中略)しかし島から海を見たとき、初めて「移動できない」「その先がない」ということの閉塞した凄まじさに襲われた。(中略)人は独りであるということを自分の中で強く受け入れたのは、(中略)島から海を見たときだったと思う。

上掲記事 p.34 より

ふ?ん、本州は島じゃないんですか?「どんなに遠くても歩いていけば」アメリカにでも「辿り着くことができる」んですかぁ?と突っ込みたいのはやまやまなのですが、置いといて、記者がどのようなことを感じようが勝手なのですが、その直後に、

そのときからずっと「島に生きる」ということがどういうことなのか、考え続けている。元ちとせの歌に惹かれるのは、その声の中に島に生きてきた人の声を聴くような気がするからだ。

同 p.34 より

と記述していることからして、「閉塞」云々は記者の個人的な「感傷」というのではなく、「島に生きてきた人」の思いであるということらしいのです。

このような「感傷」を他人に押し付けることは、現地を訪ねた経験があるか否かに依るのではなく(実際、この記者は何度も来島した経験があるということです)、ひととしてあたりまえの想像力のある/なしに依存する問題であるようです。ですから、僕はここで、「実際に住んでもいないやつがあーだこーだいってんじゃねーよ」といいたいわけではありません。

違和感の要因を端的にいえば、遠方を異化(あるいは美化、卑化)する心的機制としての「オリエンタリズム」にあります。確かに「奄美大島」というのはあまり知られてもいないし、そこから有名なひとが多数輩出しているわけでもありません。しかし、常識的に考えて、そこに住む誰もが「移動できない」「その先がない」などと思うわけがありません。「オリエンタリズム」などとわけのわからない言葉を使ってしまいましたが、要は、地理的な遠近に基づいて他人についてあれこれいうのはどうか? ということです。

グローバリズムといわれる変化が可能にしたのは、むしろ、そのような地理的な距離とは無関係に文化的な類似と差異が組織されるということ、つまりは、東京とシアトルで似ているところもあれば違うところもあるし、しかもその「違うところ」も東京の中の地域的な違い(例えば代官山と秋葉原の違い)に比べてさして大きいわけではない、という複雑な世界像ではなかっただろうか。

郵便的不安たち#東浩紀・著、朝日文庫 p.376 より

これはウィリアム・ギブソンの小説『あいどる』への「解説」の一文です。このような認識はいまやあたりまえのものなのではないでしょうか? わかりやすいのでインターネットで例えますが、ある趣味について、周りの友人たちよりも、ネット上の友人の方が近しく感じられる、というのはよくあることでしょう。その友人がどこに住んでいるのかということがそのひとの価値になにか影響するでしょうか。もしそれが奄美大島なり北海道の山奥なりであったとして、そんなことはどうでもいいことではないでしょうか。

決定的に古い、それどころか有害でしかない世界観に基づいて評価されることは、歌手にとって果たしていいことなのか。

悪口を書いてしまったついでに、「CD ジャーナル 6 月号」の特集「2002 年島唄の旅」、北中正和さんの「島唄、南からの風」に関してちょっと。

今年は沖縄が日本に復帰してからちょうど 30 年(この文章の初出は 2002 年)になります。それで、音楽雑誌がこのような特集を組むことになるのだと思いますが、またしても、なんというか…という記載が。上記した北中正和さんの記事を読んだのですが、冒頭、沖縄の社会情勢や文化・歴史等を簡単にまとめたあと、なんのためか

沖縄とは違う文化圏に属するが、奄美の島々からも、RIKKI に続いて、元ちとせマリカミズキらの若手から朝崎郁恵のようなベテランまでがユニークな歌声をたずさえて全国デビューし、南島弧の音楽の生命力を感じさせている。

「CD ジャーナル」2002 年 6 月号 p.36 より

などと書いてるんですね。ここで僕が問題視したいのは、奄美が「沖縄とは違う文化圏に属するが」というフレーズです。いいたいことはわかりますよ。しかし、この特集が「沖縄本土復帰 30 周年記念特集」と銘打ってあることからして、そんな認識は許されないのではないでしょうか。沖縄と奄美が「違う」のは「文化圏」もそうですが、歴史的・政治的な状況なのです。ともに終戦後、アメリカの統治下にあった沖縄と奄美は、その後まったく異なる歩みを取らざるを得ませんでした。ここで詳細を述べることはしませんが、端的にいって、奄美は '53 年に本土復帰を果たし、'72 年にようやく復帰を果たすもいまなお膨大な基地を抱えている沖縄とは状況がまるで違うだろう、ということです。

記者がそのことを知らないとは思えません。にもかかわらず、「本土復帰 30 周年記念特集」上で「文化圏」云々をいうだけで歴史や政治をあっさりと無視してしまうこと、ここにはやはり、「南島幻想」が見え隠れしているのではないかと勘繰らざるをえないのです。