Kentaro Kuribayashi's blog

Software Engineering, Management, Books, and Daily Journal.

映画版「ハチミツとクローバー」に学ぶ、安い話の作り方

僕は大変なド田舎に住んでおりますゆえ、ほとんどの映画は DVD がリリースされた後にしか観ることができません……。そんなわけで、「ハチミツとクローバー」が映画化された、それも蒼井優さんがはぐ役で!という話を聞くに及び、一刻も早く観たい観たい観たい観たいと思いつつも叶わず、悔しさに泣き濡れる日々を送っていたのですが、先日の DVD のリリースによりようやっと観るに及びまして、我が事ながら慶賀の至りに存じます。
肝心の映画についてですが……えーと、えーと。。。
ってな具合に、なぜかちょっとごにょごにょと書き澱んだりしちゃうわだかまりのようなものが、素直な感想を書こうとしたいま感知せられて、あんなに待ち望んで観るにいたった映画なのに、よもやネガティヴなことは思うまい!などと自己検閲的な気分になったりしてます。そこで、ちょっと別の観点から、この映画版「ハチミツとクローバー」について述べてみたい。
映画を観始めて、すぐに不審な思いでいっぱいになる。はぐにしても森田さんにしても、映画に映し出される彼らの作品が、他の登場人物たちがみな一様に「すごい……」と驚くことに素直に共感できるほどにはすごくないので、映画内キャラクタが盛り上がってる一方で、映画を観ている我々は「えぇ……?そんなにすごいとは思わないんだけど……」と、なんだか置いてけぼりにされたような気持ちになるのだ。しかし、そうやってダメなところを単にクサすだけなら、まぁ、誰にでもできることだ。それなら、「じゃぁどう演出すればよいのか」と考え始めるのが、ポジティヴな映画の見方ってなもんだ。ちょっと思いついたものを、以下に書き出してみる。

  • 誰が見ても本当にすごいと感じるだろう作品を誰かに発注・制作させ、それを画面に映す
  • 画面に作品を映さずに(あるいは中途半端にしか映さずに)、登場人物の「すごい……」という驚きの表出からの反映によって、作品のすごさをなんとなく観客にわからせる
  • 作品はあのまま、映し方もあのままで、ふたりのキャラ造形をもっとずっと「すごい……」的な感じに演出することで、人間性が「すごい……」なら作品も「すごい……」んだろうと思わせる
  • 本当はあの作品は誰が見ても「すごい……」のだけど、映し方が悪いのであんまりすごくは見えないのだとすれば、撮り方を改善して、作品をちゃんとすごく見せる
  • ストーリを改変して、いや、あのふたりは別にそんなにすごくはないんだよ、ということにする(←それ、ハチクロじゃなくなってるじゃんw)

しかし、この映画を作った方々はさすがにプロ。僕のような素人は、上記のような解決法をナイーヴに発想しちゃうんだけど、この映画が実践している、そしてこの問題に対する正解はもっとシンプルかつ巧妙で、僕の案などよりずっと効果的です。
観客は、最初に映画内作品を見た段階では、先述の通り「えぇ……?そんなにすごいとは思わないんだけど……」と感じている。しかし、それでは映画としては成り立たないので、どうにかしないとならない。ここで取り得る戦略はふたつ。

  1. 実際に映し出されている作品を改善するか、演出を改善することで、作品自体の質を高める
  2. 作品も演出もそのままに、観客があの作品を実はいいものなのだと思うように誘導する

つまり、映画という「客観」を変えるか、はたまた、観客という「主観」を変えるか。この整理によれば、僕が上に挙げた案は、どれも一番目の映画の画面そのものを変えるという案。一般的にいって、世界を変えるにはふたつのアプローチがあり得ます。「世界」を変えることと、「自分」を変えること。これらは論理的に等価。だが、それが現実世界に要求するコストは、後者、つまり主観を操作してやるほうがずっと安いわけだ。だから「それなら観客の感じ方をいじってやればいいじゃん」というのが「ハチクロ」の回答。
具体的には、はぐの絵をコンテストに出すとかなんとかいう場面で、なんかイヤったらしいオバサンが「抽象」はコンクールにはふさわしくないからダメだと、一般人(つまり我々)の芸術に対する理解(無理解)を代表する意見を述べる一方で、花本先生が「はぐの好きに描いたら」いいというようなことを述べたり、あるいは、山田さんが川縁の土手で子供たちに絵を教えている場面で、「みんな、このお姉ちゃんのよりもメチャクチャな絵を描こう」などと叫んだりすることで、観客が抱いている「別にすごくないけど……?」感は、感性の赴くまま好きに「メチャクチャ」に描いているはぐの抽象芸術を理解しないあのイヤったらしいオバサンと同様のものなだと貶め、それをもって「あぁ、自分はあの絵をそんなにすごいとは思わなかったけど、それは芸術への無理解のせいなのだ。教養が足りないせいなのだ」と、誰もが不安に思っているのだろう弱みにつけこみ、観客の芸術鑑賞に対する考え方を啓蒙し、その反映として、映画内の作品を光り輝かせるという手法である。
また、仮に観客がその評価を改め「すごい……」と思うようにはならないまでも、そこまでいうのなら、「別に……?」という気持ちのままで映画を観たって楽しくもなんともないので、しかたなく「まぁ、このふたりの作品はすごいということに、この映画の中ではなっているのね」てな具合で、いいように配慮をする方向で改心するかもしれない。
これらの手法は、僕が上にリストしたいずれの手法よりも安上がりだし、効果もあるだろう。90年代から猖獗を極めている「セカイ系」は、いまやこうして観客操作の術として利用されるにいたったわけだ。「ハチミツとクローバー」こそ、21世紀にふさわしい新たな「セカイ系」映画であるといえるだろう。いま、映画で、いや、映画に限らず表現全般で身を立てることを志す者が習得すべき技術とは、「ハチクロ」に見られるような、プロパガンダの技術である。洗脳してなんぼ。しかし表現とは元々そういったものではなかったか。
ところで、蓮實重彦氏は「プライベート・ライアン」を例に出し、画面を軽視し、単なる「劇的状況」についての観客の「理解」を喚起すればそれでよしとする映画について、むなしくはないのだろうかと述べている。

よく挙げる例ですけれど、スピルバーグの『プライベート・ライアン』(1998)の墓地に出てくる顔は、みんな忘れちゃっていい顔でしょう。どれひとつとして、その顔を憶えていなければその後のフィルムの流れにすがりつけないという記号ではなく、どれも忘れてしまっていい。これはスピルバーグに対してどうしても最後まで残ってしまう私の疑問なんです。つまり、シナリオ通りにその画面を撮ったけれども、あそこに出ているひとで憶えなければならない顔がまったくない。だから、あの場面はほとんど見る必要がなく、劇的状況を理解すればそれでよい。しかし、そうした場面を演出することに、むなしさはないだろうかという疑念が最後までまといついて離れません。

これは「ハチミツとクローバー」についても同様にいえることで、「プライベート・ライアン」が「顔」の忘却を問題としないのと同様に、「ハチクロ」もはぐや森田さんの作品が実際に、本当に「すごい……」ものとして画面に映し出されているかどうかなど問題とせず、説明的な場面を1, 2個配置し「劇的状況を理解すればそれでよい」という観客の配慮を求めるわけだ。そこに「映画」 = 「世界」など存在しない。あるのはただ、作り手と観客との主観的な共犯関係に基づく「物語」 = 「セカイ」だけだ。しかし、新世代の表現者は「忘却」を演出することに対する蓮實的な、旧弊な「むなしさ」などかなぐり捨て、フレッシュな表現を追求していくべきなのだろう。映画版「ハチミツとクローバー」は、そう主張しているのだ。大変に心強い限りである。