2015年9月6日
昨夜は遅くまで起きて、本を読んだり動画を観たりしていたので、11時頃起床。メディテーションするの忘れていた。最近忘れがちだなあ。よくない。
『疑似科学と科学の哲学』の続きを読む。
ネットで失敗しているセルフブランディングの話を見て、そのひとについては「大変そうだなあ」ぐらいの関心しかないけれど、「セルフブランディング」というほどのことではなくても、単純に発言が馬鹿っぽいとか恥ずかしいとかいうことはあり得て、自分にもきっとそういう面があるのだろうなあと思う。大言壮語するというのはダメさとしてわかりやすいけど、頭が悪いとかセンスがないとかは自分では気づきにくいことだろう。
たいていのひとはまっとうな大人なので、社会規範や道徳に著しく反するといったようなことでもなければ、他人の言動が目につくようなことがあっても看過するのみだろう。社会的なポジションによっても、その傾向は強化されていく。そうなると、ますます自分の言動を、別の観点からふりかえってみることは難しくなるだろう。教養、というと大げさだけど、自分より優れた人の視点を学ぶというのは、その意味でも意義のあることだろうと思う。
家にずっといるのもアレだしってんで、散歩。駒場のうつわ partyへ。ピンとくるものがなく、なにも買わなかった。行こうと思いつつ足が向いてなかったけど、歩いて20分ぐらいだったので、定期的にくるようにしようと思う。そのまま東大の方へ歩き、「ル・ルソール」。ほとんど売り切れていて残念。といいつつわりと買ったけど。
日本近代文学館に寄ってみようともう少し歩く。しかし、16:30閉館ということで既に閉まっていた。残念。富ヶ谷からぐるっと回って帰ることに。途中、BONDI COFFEE SANDWICHESで休憩。オシャレで健康的な感じ。
帰り道にワインを買って、パンを食べながらポール・トーマス・アンダーソンの「ザ・マスター」を観る。酔ったのと退屈してしまったのとで、途中で寝てしまう。1時間ほど寝て、再開。
科学哲学の本を読む感じの頭じゃないので、先日マザーズに上場したメタップスの社長さんの本(『未来に先回りする思考法』)を読む。賢いひとなんだろうなあと思う。
本の中で、北朝鮮の人々は、傍から見ると不幸そうだけど、情報統制がされていて外との比較がないから、それはそれで幸せそうだという話があった。情報量が多くなると、選択しなかった選択肢に気を取られて不幸になると。確かに、選択肢を持たなければ主観的には機会費用が発生しないので、そういうことはあるだろうと思う。
機会費用を考慮しない、主観的・経験的な幸福論というのはネットでもよく見られる。さらには、上述のような話でいうと、選択肢を増減させることができるかどうかには偶然に左右される能力の多寡が影響するために、機会費用の考慮ということ自体に対する理解に困難があり得る。
そうなると、現実的には「意識的に選択肢を操作できる能力を持つものが、それがために機会費用の亡霊に悩まされる不幸」と、「はなからそうした選択肢など考慮にも入ることのない、マイルドヤンキー的幸福」とがあって、そのどちらが「幸福」なのかはわからない。個人的には、もうちょっと違う考えを持っているけれども、それについては別のところに書いたので繰り返さない。