Kentaro Kuribayashi's blog

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戸田山和久『哲学入門』

レイチェル・クーパー『精神医学の科学哲学』など、科学史や科学哲学の本をちょっとずつ読んだので、1年ちょっと前の刊行当初に買って読みさしてあったこの本をあらためて読んだ。

「意味」や「機能」など、目次の章タイトルになっている言葉について、「ありそでなさそでやっぱりあるもの = 存在もどき」を、いかにして「モノだけ世界観」に描き込むかという方針で、唯物論的な自然法則が支配する世界からそうした「存在もどき」が現に「発生」し得るということを延々述べている。各章の細かいところまではなかなか頭がおいつかなくて理解できないところもあるのだが、少なくとも、我々がふつうに考えるよりもずっと、そうした「存在もどき」たちは「モノだけ世界観」で説明できるのだなあと説得される。

一方で、第6, 7章「自由」「道徳」に入ってくると、それまでの「存在もどき」たちが根底的であるように思えるところから、より「社会的」(といういいかたでいいのかわからないけど)になってきて、疑問が出てくる。究極のところでは、人間がいまあるように進化したことをメタに見た時に「人生に意味があるか」という問いがあり得て、それに対してはネーゲルとともに、人間は小さな「目的手段推論」を行う存在であって、そのことを真面目にとらえて無意味とか思わなければいいというわけだけど、そういうことじゃないよなあと思う。

そういう「説教」の水準としては、ひとりの「オトナ」としてはそれはそれで同意するのだけど、別に無意味だといってるのではなくて、「存在もどき」たちを本書のように根源から自然化した上で、人生には意味も無意味もないよねという話だと思う。それはネガティブなことでもなんでもなくて、単に観照する以上のことはない話なのではないか。その上で、人間たちの社会が「自然法則」のレベルではそうであったとしても、デネット的な「観点」によっては普通にいわれる「自由」「道徳」が有用であり得るし、それでいいのだと思う。

ローティ的な反基礎付け主義という文脈でいうと、唯物論者として本書の「存在もどき」の導出には同意するけれども、現に「社会」においては「観点」が違うのだから、唯物論に基礎を求めたってあんまり意味のない話だろうと思う(だからこそローティは「進化論」に言及はするけどさらっとそうするにとどまるのだろう)。リバタリアン的自由を「オカルト」といって著者は切り捨てるが、「社会」の「観点」からいえばこの本の議論だってそのままでは「我々はそういう自由の話をしていない」「自由はXXであるべきだ」といわれて終りになるだけだろう。

そんなわけで、哲学あるいは科学としては(?)同意するけれども、有用性を重んじるべき「社会」の文脈では普通にローティ的リベラルを採るなあという思い自体は変わらないなあと思った。

哲学入門 (ちくま新書)

哲学入門 (ちくま新書)

  • 序 これがホントの哲学だ
  • 第1章 意味
  • 第2章 機能
  • 第3章 情報
  • 第4章 表象
  • 第5章 目的
  • 第6章 自由
  • 第7章 道徳
  • 人生の意味 - むすびにかえて
  • 参照文献と読書案内
  • あとがきまたは謝辞または挑戦状