Kentaro Kuribayashi's blog

Software Engineering, Management, Books, and Daily Journal.

blog に謝罪文を掲載すること

謝罪と誓約 : 小心者の杖日記」に述べられている内容自体には、当事者ならぬ一読者であってみれば、当然まったく関心がないのだけど、なにかことがあって、そのことに決着をつけるために、個人的に運営している blog において「謝罪と誓約」を述べるという成り行きには、おおいに興味を覚えた。
これまでは、当該エントリに述べられているのと同じようなことがあったとしたら、それが一般の私人間の争いならば、口約束だとか書面をとりかわすだとかあるいは裁判だとかで決着を図るだろうし、また、新聞や出版物上での名誉毀損といったことであれば、謝罪広告を打つ等して終結するということになったりもするだろう、それがいま、その個人が運営する blog で「謝罪と誓約」を述べるという発想が現れつつあるのだろうか。
まぁ、Web に謝罪文を掲載するってのは、山形浩生さんの件(「というわけで、例の裁判の全貌未満以上」)が有名だし、その他にもありそうだから、別に目新しいものじゃあないのだろう。件の「謝罪と誓約」が blog のエントリとして書かれた経緯がよくわからないのだが、仮に、blog に件のエントリを掲載することが、当該エントリ著者の「謝罪したい」という気持ちが blogger 的に発露した結果というよりもむしろ、和解の条件なのであったとしたら、blog がますます一般化し、個人のアイデンティティを形成する大きな要素となるだろう今後(先駆的には、ネットベンチャーの求人における blog の役割を挙げられるだろうし、問題のエントリ著者の場合なら、ライターとしての営業活動にそれなりの役割を果たしているのではないかと推測される)において、ことは「小心者の杖日記」といういち blog にとどまらないんじゃないかしら、などと心配してしまう。
仮に和解の条件として「謝罪と誓約」が書かれたのだとして、その掲載期間については、トラブルのあったどう定められているのだろうか。山形さんの件だと、判決ではひと月のあいだ謝罪文を掲載しろ、ってことになっていた。そのあたりについてなんの言及もないのが、不思議な気もする。極端な話、期間について言及がないということで、つまりは生きてる限りずっと掲載しなきゃならないという取り決めだったとして、たとえば URL が変わったりしたらどうすんの?とか混ぜっ返したくなるし。
しかしまぁ、掲載期間なんて本質的な問題ではなくて、一度ネットに流しちゃうと、その情報を回収しようったってできやしないことが問題だろう。実際、当該エントリは、一度ポストされた後なんらかの理由により削除されていたのだが、その間も、フィードリーダで普通に全文読むことができたわけだし。また、この件は有名なブロガーの問題だから注目を集めることになったけれども、そのへんの泡沫ブロガーが和解の条件として「謝罪と誓約」を書くことになったとして、そんなの誰も読まないのだからどうでもいいといえるかどうかといえば、どうなんだろうか。
たとえば、泡沫ブロガーの典型である僕ですら、なんかやらかしたとして、実名とともに謝罪文をこの日記に掲載することを要求されたら、やらかした内容にもよるけど、一般的にいって重過ぎる条件だと思うかもしれない。ある期間が経過した後は、この日記自体からは謝罪文が消えたとしても、数十年後、僕に孫ができたとして、その孫の婚約相手(あるいは彼/彼女が雇った探偵)が、婚約相手の身元調査の一環として僕の名前で検索して「こんなことをやらかす DQN の孫とは結婚できない!」なんてことになったらどうしよう?そんなの、おじいちゃん責任もてないよ!
それは極端な話だとしても、ある時点で妥当だと思われていることであっても、それが検索可能な形で長期間にわたって残ってしまうことで、個人が背負える、あるいは、背負うべき責任を超えてしまうおそれがある(このあたりは東浩紀さんがよく述べてる話に関係するだろう。「波状言論>情報自由論>第8回」参照のこと)。
まぁ、それを因果応報だと思うひともいるだろうけど、もしそれが一般的なネット慣習になったとしたら、予想外に不自由なことになるだろう。一方では交友関係や就職において、blog がますます現実社会における自分のアイデンティティを補完・強化するものになっていき、だからこそ、ことが起こればその blog 上で謝罪文を書くことを求めることになる。そして、過去にやらかしちゃった過ちについて本心から反省したとしても、そのことは一生そのひとのアイデンティティについてまわることになるわけだ。それはいったい望ましいことなのだろうか。