Kentaro Kuribayashi's blog

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「普通においしい」という言い回しは、「日本語の乱れ」あるいはそれを否定する議論とは無縁である

小説家・平野啓一郎氏による「普通においしい」と題されたエントリは、氏が「意外に思われるかも知れませんが」と述べるのに反してなんら「意外に思われる」こともなく、当該エントリに寄せられたトラックバックはてなブックマークでの反応を見る限りでは、概ね、それこそ「普通に」多くの共感を集めている。
なるほど「日本語の乱れ」などという架空の問題にうつつを抜かして「「美しい日本語」を守ってるような気になってる」つもりの者たちの「言葉に対して、無意味に硬直した態度」を非難し、対するに、「生きている」言葉を「現代人なりの必然によって、好きなように工夫して」使用することの柔軟性を称揚するその論旨には、僕も深く共感する。しかしその「共感」は、いままでなんとなく思っていたことを、小説家という言葉の専門家が代弁してくれたという、権威主義に基づく薄ら寒いものでしかない。
「普通に〜」という言い回しは、「「チョベリバ」みたいなギャル語」などと同じような、そのうち廃れたり、あるいはいつの間にか定着してしまったりもする「流行語」などでは断じてない。それは「現代人は現代人なりの必然によって、好きなように工夫」するといった作為を超えて、それこそ「現代人なりの必然」それ自体が生んだ言い回しなのだ。どういうことか。
「普通に〜」という言い回しが用いられる状況として、たとえば以下の場合が考えられる。

  1. 百家争鳴的な意見乱立があり得ることを前提として、あえて議論の余地のない素朴な意見を述べる場合
  2. 必ずしも肯定的あるいは否定的には捉えてはいないが、場の状況によって肯定したり否定したりする必要があり得るミュニケーションを前提として、あえて場の空気を無視してストレートに評価を行う場合
  3. 評価軸を容易に相対化し、操作することが可能であるという前提の元に、あえて素朴な意見を示す場合

1については、たとえばグルメ的なあるいは社会的に正しいとされる(有機農業で作られた食物であるとか)言説があり得ることを前提に、そのようなもってまわった言い回しをせずとも「普通においしい」と素朴な感想を語ることにより、

  • グルメ的あるいは社会的に正しいとされる言説のバカらしさについてメタに言及する
  • そういった言説を超えて、一般的な、普遍的なおいしさがそこにあるのだと主張する
  • なにか述べなけらばならないあるいは述べたいが、しかし、意見を異にするひとの気持ちを害したくはないので、とりあえずニュートラルな評価をする

という効果がある。
2については、「裸の王様」的状況あるいは「空気嫁」的な同調圧力の働いている状況を想起すればよい。そのような状況下で「普通においしい」と語ることは、

  • 権威の語る饒舌に対してあえて素朴な感想をぶつけることにより、その空疎ぶりを露わにする
  • 場の空気が支配する評価体系にあえてしたがわない意志を表明する
  • なにか述べなけらばならないあるいは述べたいが、しかし、場の空気を乱したくはないので、オブラートにつつんで自分の意見を述べる

という効果がある。
3については、極端にいうと「激マズなものが、いまむしろ、逆にいうとおいしいよね」というコミュニケーションもあり得るわけで、そのような、価値の評価軸を相対化し、それを自由に操作可能であり得るという前提の元で「普通においしい」と語ることは、

  • 価値の相対化・操作可能性など幻想であると主張する
  • そのような作為を超えて、一般的な、普遍的なおいしさがそこにあるのだと主張する

という効果がある。
いずれの場合にも共通するのは、いまや既に「普通」の意見などというものは、なんらかの前提を否定する形でしかあり得ないという認識だ。そこでは、流行語だから、あるいは、言葉が乱れているから「普通に〜」などという言い回しを用いているわけではない。そうせざるを得ない社会的な前提があるから、そういう言い回しで物事を評価しているのだ。つまり、端的に「普通」なものなどないから、あえて「普通」なものを見いださねばならないのだ。
そうであってみれば、そもそも「普通に〜」という言い回しを、単に「言葉の乱れ」という言説についてのみ検討することは、あまりにもナイーヴに過ぎる。それは、問題を不当に矮小化している点で、「言葉の乱れ」論と変わらない。あえていおう。「言葉の乱れ」など、もっといえば、言葉などどうでもいい。そんなことよりもむしろ、「現代人」にそのような発言をなさしめる状況こそが重要なのだ。

追記

佐藤秀さんが、僕がいいたかったけどうまくいえなかったので割愛した論点を簡潔に述べているので、ここに引用する。

「普通」と「おいしい」が辞書に載っていれば、「普通においしい」は普通に通じる。理解できないのは、文脈に対する適応力、つまり国語力の問題だろう。
(中略)
そのオリジナルの用法は、新しいのかもしれないが「普通」という意味さえ知っていれば、理解可能。30年前に突然言われても、30年前の人も普通に理解できる表現だ。

そう、「普通に〜」の意味がわからないなどといって「「美しい日本語」を守ってるような気になってる」つもりの者たちは、普通に理解可能な言葉を、なぜか理解できないといってとぼけ、流行に対して斜に構えているに過ぎない。斜に構えている人間とは議論にならないので、「言葉の乱れ」論者のいうことに耳を貸すこと自体が不毛だ。
日本語の用法的に誤りがないどころか、それこそ「30年前の人も普通に理解できる表現」でありながら、つまり、いつの時代にもあり得た言葉の流行が、なぜ現代でなければならなかったのかを考えると、そのときと現代とで前述の通り「普通に」の意味が異なるわけではないのだから、状況が変わったのだと考えるしかない。だから、本エントリは、「普通に〜」という言い回しを人々に強いる状況について語っている。ただ、

  • そのような状況がなぜ生まれたのか
  • それは本当に現代に固有のものなのか

については、明らかにされていない。
前者について参照すべき文化的動向を簡単に述べると、特に本文に挙げた3番目の「評価軸を相対化し、操作することが可能」云々について、たとえば90年代のサブカルチャ的な、あるものごとについて、縦から、横から、斜めから、「普通」でない視点をあえてとることにより、面白さを見いだしたりけなしたりといったものの見方が横行したのだし、21 世紀の現在では、そういう視点が社会の隅々にまですでに流通し終え、むしろ反動的な気運すら巻き起こっている。
細かい論証なしに話をすっとばすと、「価値感はひとそれぞれ違うよね。だからお互いを大切にし、話し合いを続けることが重要だよね」というリベラルな了解は、上記したような「評価軸の相対化、操作可能性」という極端な人工性に結実したかと思いきや、翻って「私の価値観は変えようのない、固有なもの。ひとのいうことに左右されたりなどしない」という、反動的ですらある認識に変わり、いまでは他人と異なる意見を述べたい時、「現代人」は「普通においしい」などといって、他人の気分を害さないよう、あるいは、場の空気を乱さないよう配慮して、極度にニュートラルな意見を装わなければならなくなったわけだ。それがさらに嵩じて、単に自分の意見を述べる時ですら、一般的な他者が語り得る無数の意見を前提とした上で、それらを踏まえてなお「普通においしい」などと、我々は述べている。
これのどこが「言葉の乱れ」の問題なのだろうか。