Kentaro Kuribayashi's blog

Software Engineering, Management, Books, and Daily Journal.

2016年4月19日

今日は朝から夕方まで、新卒採用説明会のリハーサル。なぜ説明会のリハーサルにそんなに時間がかかるのか。それは当日のお楽しみ。

少し前にTwitterで、確かRTで流れてきたと思うのだが、「英語ができないひとは、できないと認識するのではなく、英語が下手だと認識するほうがよい」という内容のものがあった。「できない」というと、対象との距離を図ることもなく、単に壁を作るだけのことになる。しかし、事実としては単に下手なだけなのだから、その事実を見なかったことにするのではなく、他者やあるべき状態との比較においてできるだけ正確に自己認識すべきだということだろう。

何事かについて、自分はそれをできないという認識を持つのは簡単だ。できないという認定をするだけなら何も考えなくてもできるし、人間を「できる側」と「できない側」とにわけると圧倒的に「できない側」の方が多いのだから、心理的にも安心だ。問題は、「できない側」においてどれだけできないのかということだろう。それがわからなければ、できるようになる解決策を考えることもろくにできないから、できるようになることもあまりないだろう。

そうはいってもまあ、なんでもかんでも「できる」ようになるというのも時間的に不可能なのであるから、人生において重要度が相対的に低いことについては「できない」というひとことで片付けてしまうのは、それはそれで効率的な生き方であり得るだろうとは思う。何ができなくてもよくて、何がどれだけ下手だからできるようになるにはどうしたらいいか、そういうことをテキパキ考えて、ちゃんと実行していかねばなあと思う。そう思いつつ、なかなかできないのも人間というものだ。