Kentaro Kuribayashi's blog

Software Engineering, Management, Books, and Daily Journal.

2018年1月8日

ニコラ・ブリオーの「21世紀の関係性のランドスケープ:人間的そして非人間的領域の狭間におけるアート」によって、あれこれと考える。彼のいうには、subject/objectの関係性が領域侵犯されていき、いまや水平化している。過去がどうであったかというよりもむしろ、未来にどこへ行きたいかを見据えるべき我々は、ポストモダン=アイデンティティポリティクスを離れ、自らをクレオール化していく(Alter Modernity)必要があると。

ただ、日本人たる自分が思うには、subject/objectのような分明など、もとより日本の歴史的には存在しなかったわけだし、自然に対する考え方も違う。西洋美術史の文脈において、客体→崇高の対照→人新世という自然観があったとしても、我々にしてみれば、最初から自然は馴致というよりは共生すべき存在、すなわち、人間と渾然一体な存在であったわけだ。

ただし、人新世という考え方にも面白いところはある。人類の存在が地質学的影響をもたらすほどのものであってきたこの数十年間は、しかし、ブリオーが言うとおり、たとえば株取引の多くの割合がボットによって行われることに代表される通り、早々に黄昏を迎えていくだろう。人新世が100年も過ぎれば(それは2050年頃、シンギュラリティの時代だ!)、ヒト(=subject)/モノ(=object)渾然一体の「世」になっていく(人工知能たちが地層に痕跡を残す世に!)。

そうであってみれば、たとえばカンタン・メイヤスーのいう、自然法則すらも根本的な偶然性を帯びているという、ほとんど世迷い言に聞こえる宣言も、モノ(具体的には計算機のネットワークからなる「自然」=「計算機自然」©落合陽一)の観点から見ると、自然法則が根本的に変化したといってもいいような世界になっていくともいい得る。その時代における「概念」は、我々のシンボル体系からは到底理解できない異形となっているだろう。

そういうヴィジョンの端緒を(我々からすると未熟なものであるとはいえ)グローバルなコンテキストにおいて現代アートが開いているのであるとすれば、subject/objectの別をもとより持たない日本人の感性を差し置いて、あたかも最新の理論といったていで彼らが我々に語りかけてくることがなぜ可能になっているのかを考えると、それはもう単に、グローバル市場における覇権を日本人が有していないということに尽きる。

そうであってみれば、単に彼らの無理解を嘆いたところでしかたがないのだし、もとより知識としてはそんなことは百も承知だろう。要は、グローバルなコンテキストへのプレゼンテーションが足りていない、であればその文脈において認知されるような打ち出しをしなければ、ローカルな遠吠えにしかならなかろうと思う。

岡倉天心から村上隆まで、グローバルなコンテキストに棹さしてきた日本人は数多くいたとはいえ、物量の少なさは明らかだ。現代アートの文脈に、継続的かつマッシヴに竿させるような作品を提示し続けることによって適切な「啓発」を行うことこそ、我々の使命といえるのかもしれない。