Kentaro Kuribayashi's blog

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「写真家たちのクスコ―マルティン・チャンビと20世紀前半のアンデス写真―」展評

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三宿のSUNDAYで開催されている「写真家たちのクスコ―マルティン・チャンビと20世紀前半のアンデス写真―」展を観に行った。マルティン・チャンビの作品を観るのは、昨年末にインスティトゥト・セルバンテス東京で行われたのを観たのと合わせて2回目。ちょうどその際にも出展された白根全氏によるコレクションが、マルティンチャンビ写真展実行委員会によって、SUNDAYでも再現された形になる。

マルティン・チャンビ(Martín Chambi)は、1891年に生まれ、1973年に没したペルーの写真家。当時は社会的に下層に留め置かれていたインディオの農民の家に生まれながらも、写真家としてめきめきと実力発揮し、後にはペルーで初めて欧米にもその名を轟かせる偉大な写真家となった人。クスコに写真館を構え、生前から他の写真館とは格式が違い、上流階級向けに写真を撮っていたという。その一方で、割れやすいガラス乾板のフィルムと大判カメラを担いでマチュピチュまで片道1週間かけて歩きたくさんの自然を撮り、クスコの街の人々や風景を今なおいきいきと伝える写真を数多く残した。

1979年にはMoMAで展覧会が開催される等、欧米では既に名前が知られつつあったマルティン・チャンビを、未だに知る人ぞ知る存在である日本において精力的に紹介してきた白根全氏による、チャンビのみならず、日系2世の写真家エウロヒオ・ニシヤマや、ペルーの写真アーカイブ機関Fototeca Andinaに収められたものから集められたコレクションは圧巻のひとこと。チャンビの素晴らしさは圧倒的だが、しかし、個人的にはフアン・マヌエル・フィゲロア・アズナールのセルフポートレートは、自分の手元に置いておきたくなる、魅力的な写真だと思う。その他の写真家の作品も、ロラン・バルトのいうところのプンクトゥム*1というべき、魅惑的な細部に満ちている。

その一方で、対照的にマルティン・チャンビの圧倒的な力量が屹立して迫ってくるのも確かである。花嫁とその乳母を撮った、極めて古典的(=クラシカルな)構図。クスコ長官とその妻の結婚式の、ドラマティックな陰影表現。人物写真に見られる、被写体の心底までをも射抜くような鮮烈な描写。かと思いきや、子供の泥棒を捕まえた警官の写真に見られる、悲惨な状況なのにもかかわらずヒューモアがにじみ出るような作品もある。全般的に共通するのは、画面としての高い完成度があるにも関わらず、その奥行きに深い物語性がにじみ出てくる、一筋縄ではいかない写真。それを白根氏は、マジックリアリズム的と評する。至言である。

マルティン・チャンビの作品を観ていて僕が思い出すのは、意外にも(?)ロバート・メイプルソープなのであった。どういうことか?メイプルソープもまた、隅々まで計算し尽くした、極めてクラシカルな描写による作品を多数残した写真家である。彼自身がゲイでもあり、被写体もまた、セルフポートレートを含め、現代ならぬ当時においては社会的に「はみ出し者」とされるような立場の者たちであった。そうした者たちを、完璧に端正な、古典主義的構図で撮ることの、価値転倒。チャンビもまた、インディオの農民の出という生まれからして一筋縄では行かなかっただろう写真家修行の過程において、いまに伝わる作品に観られる厳格な画作りからして、同じような屈託があったのだろうと、僕は想像する。

その生きてきた時代において、社会的に必ずしもすんなりとは認められ難かった立場の者が、その作品制作において極めてクラシカルな技法を、誰よりも完璧に身につけ実践してみせるという、価値転倒の妙。それを僕は、マルティン・チャンビとロバート・メイプルソープの両者に共通して見出さざるを得ない。そして、完璧に計算された画面であるからこそプンクトゥムが廃されてしまうその写真のすぐそばには、必ずしも力量的にはチャンビほどには恵まれなかったとしても、確かにクスコで生きた人々が極めて生き生きと描かれる、他の写真家たちのプンクトゥムに満ちた写真たちが並べられている。どちらが好みかはともかく、あるひとつの新たな写真的体験を得られるに違いないこの展覧会に、是非足を運んでほしいと思う。

会期は、2019年1月24日(木)~2月12日 (火) 。詳細は公式サイトを御覧ください。